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応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永30年(1423年)から応永33年(1426年)にかけて、越後守護上杉頼方と守護代長尾邦景が越後国全体を巻き込んで争った事件である。越後応永の大乱と呼ばれる。 幕府と鎌倉府の対立における越後国の地理的条件や、守護の領国支配に対する国人層の抵抗〔佐藤(2006)、48-50頁 (「越後応永の内乱と長尾邦景」 初出1976年)。〕、幕府管領畠山・細川氏の対立に起因する上杉家の内訌〔『新潟県史 通史編2』、208-212頁。 従来この大乱で対立したのは房朝と邦景とされていたが、『県史』において歴代越後守護の朝方と房朝のあいだに頼方がいることが論証されてからは頼方と邦景の対立とみられることが多い。本項も『県史』に従う。〕といった要因が重なって起こった。 == 背景 == 応永23年(1416年)に起こった上杉禅秀の乱の戦後処理を巡って幕府と鎌倉府の関係は急激に悪化していた。そんな中、応永28年(1421年)に越後守護上杉房方が死去し、房方の子で跡を継いだ上杉朝方も翌29年(1422年)10月に死去した。朝方のあとにはわずか2歳の遺児・幸龍丸(後の上杉房朝)が残されたが、新たに越後守護となったのは朝方の弟の上杉頼方だった。この背景には管領畠山満家と前管領細川満元の対立があった。 頼方が越後守護となった応永29年から30年にかけて関東公方足利持氏は京都扶持衆の討伐を行っており、幕府と鎌倉府の対立は更に深刻なものとなっていた。これより以前に頼方の弟・憲実が山内上杉家に養子に入っていたことから、頼方は将軍足利義持から関東内通の疑いをかけられた。応永30年(1423年)9月には義持による頼方討伐の噂が流れ、頼方はあわや切腹かという状況まで追いつめられたが、頼方の支援者である細川満元らの必死の説得で赦免された。 一方で上杉房方の代から守護代を務め越後支配の実権を握っていた長尾邦景は鎌倉府に通じていた。頼方は自身にかけられた疑いを晴らすためにも邦景の討伐を望んだ。応永30年(1423年)11月初旬、幕府が頼方と越後の国人たちに邦景治罰の御教書を発給したことで越後応永の大乱が始まった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「応永の乱 (越後国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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